オーストラリアの増え続ける移民、深刻化する不法亡命者問題

  


オーストラリア移民の歴史

オーストラリアの移民の歴史はジェームスクックを船長とするイギリスの観測隊がオーストラリアの東海岸に到達し、東部一帯をイギリス国王ジョージ三世の名の下に領有を主張したことに始まる。

領有を主張した土地はニューサウスウェールズと名付けられ、当時の領有の範囲は現在のニューサウスウェールズ州、クイーンズランド州、タスマニア州が含まれていた。

移民の定住は1788年の流刑を通じて始まった。

18世紀のイギリスは、農業革命と囲い込みによって土地を失い職を追われた農民と産業革命による失業者が都市部に流入したことによって治安が悪化し犯罪が激増した。

当時の法制度では軽微な罪でも問答無用で監獄に罪人を収監していたため国内各地の監獄はすぐに満員になり、代用として囚人をハルクと呼ばれる外洋航海に適さなくなった大型船に収容するようになったが衛生環境は劣悪で常にすし詰め状態であった。

これを解消する為にイギリス政府は海外の植民地に微細な罪を犯した囚人を処理するため流刑する事にした。

元々イギリスはアメリカが独立するまでは北米の13植民地を流刑地に指定していて1717年から1776年の独立宣言までの間に、約4万人の囚人がイギリスからアメリカへ流刑された。

しかし1783年にアメリカの独立戦争が終結しイギリスが植民地を喪失すると、アメリカがイギリスからの囚人の受け入れを拒否し、新たな流刑の候補地を探す必要に迫られていた。

流刑候補地の選択基準はその土地で囚人が自給自足をできるかどうかだ。候補地はオーストラリアの他にカナダや西アフリカが候補地として上がっていた。

しかしカナダは寒冷な土地であるため自給自足が非常に難しく候補からは外され、西アフリカは軍関係者や政府関係者などが次々に黄熱病や風土病に罹患したため流刑植民地には適さないという事で却下された。

最終的に気候が温暖で自給自足に適しているニューサウスウェールズが流刑地として選ばれ、1785年にジェームスクックの観測隊の到達時から領有を主張していたニューサウスウェールズに新たな流刑地を設ける事を決定した。

その後の数十年間で同大陸の調査が行われ、人口は着実に増加し、さらに5つの自治王領植民地が設立された。1901年1月1日、6つの植民地が連合し、オーストラリア連邦を形成した。

人口増加問題

オーストラリア政府は2016年2月16日に人口が2016年2月16日に2,400万人を突破したことを発表した。

オーストラリア統計局によると最近の調査で出生率の自然増と移民の受け入れを背景に人口が100万人増加するのにかかった期間はわずか2年9ヶ月あまりという結果が出ている。

1999年の豪政府は当初2400万人に人口が到達する期間はおよそ34年と予測を立てていたが、そのわずか半分の期間で人口が予測の数値まで達した。

人口増の主な原因は出生率による自然増と移民の受け入れであるが、現在人口増の割合の内6割強を移民が占める。

2001年と2006年の国勢調査の間に、最も多く増加した移民の内訳は、中国(6万4,000人)、インド(5万2,000人)、ニュージーランド(3万4,000人)、南アフリカ(2万5,000人)であった。

世界人口に置けるオーストラリア人の占有率は0.32%で、人口最多としシドニーでは50年で人口が倍増しており今年中に500万人に達すると見られている。

難民問題

こうした移民による人口増の問題の他にオーストラリア政府の悩みの種は難民の不法入国問題だ。正式な難民申請の手順を踏まずに不法に船で入国を試みるアジア近隣諸国からの難民が増加の一途を辿っている。

一昨年6月にはスリランカからの難民157人を乗せた船が国境警備隊並びに海軍によって一斉に拿捕された。こうした不法に入国を試みた難民の移送先は2つだ。強制送還によって本国に送り返されるか、オーストラリアと協定を結んでいる第三国の難民収容所への移送だ。

収容所では難民認定の審査が行われ、結果がでるまで待つのだが、難民認定されてもオーストラリアには住めない。オーストラリアが難民の移送措置の協定を結んでいる第三国に留まらなければならない。

その第三国とはパプアニューギニアやナウル共和国、カンボジアなどである。

こうした不法に海を渡って亡命を試みようとする難民の問題は根深く1970年代、オーストラリア政府の「白豪主義」から「多文化主義」への移行とともに亡命希望者が後を絶たなくなった。

その都度オーストラリア政府は不法亡命者に対する方針を打ち出し厳しい対応をしてきた。前アボット政権時も難民船の上陸を力づくで阻み、海を渡って来た人達が政治亡命者であるか否かを確かめる事も無く出港地へと送り返した。

もともとオーストラリアは大英帝国植民地時代から現在まで「白豪主義」を標榜し排他的な移民政策を行ってきた。

第二次世界大戦後は国連を中心として各国に人権規範が求められるようになる。オーストラリアはこうした国際的な人権意識の高まりを背景として人道的な観点と労働力の確保を優先させるとともにアボリジニの保護に乗り出し、「白豪主義」から「多文化主義」へと舵を切る事となる。

難民申請を目指す人の多くはオーストラリアを目指すようになる。その数は大幅に増加し政府でも対応しきれなくなる。正規の申請を踏まずに海軍の目をかいくぐって不法に上陸するものも後を絶たなかったため、「パシフィックソリューション」と称した第三国を利用した一時的な難民の移送措置を取る事で多すぎる亡命希望者の難民申請に対応した。

難民の受け入れは先進国にとっては義務であるという見方が強い。そしてオーストラリは難民条約とそれを補完する議定書に批准しているため、こうした難民の受け入れに消極的な姿勢を見せるオーストラリア政府に対する国際社会の風当たりは強い。

まとめ

オーストラリア政府が抱える人口増加問題の懸念の矛先は常に移民にむいている。増えすぎた人口は政策によってコントロールはできない。コントロールできるのはこれからまさに入国し定住を試みようとしている人々だ。

直近の調査で2年9ヶ月で100万人という人口増加のスピードは先進国の中ではトップだ。1999年の2400万人の人口増加予測も予測期間の半分の期間で到達してしまった。

オーストラリアはこの人口増加のスピードに懸念を示さずにはいられない。オーストラリアはブラジルに次ぐ世界第6位の広大な国土を有する国だが、人が住める場所は限られる。

そのため人口の増加率は常に懸念の対象だ。今年7月から実施されるワーホリビザを対象とした税制改正も移民流入の抑制を図ったものと思われる。

不法に滞在を続ける東南アジア諸国からの移民は私のファームでも普通に働いている。こうした経緯からビザの獲得はさらに厳しいものとなりそうである。

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